長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第13回(p22-23)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第13回2.2.1-Permutation-Groups(その1)20190515勉強会.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/13p22-232-History-of-Group-Theory-2-2-Development-of-specialized-theories-of-groups-2-2-1-Permutation-Groups1-edupjj

2 History of Group Theory
2.2 Development of “specialized” theories of groups
2.2.1 Permutation Groups(その1)

 群論の発展における4大起源とは、第1起源 -古典代数 -、第2起源 -数論- 、第3第4起源 -幾何と解析- である。それぞれの期が、置換群論、可換群論、変換群論へと発展してきた。

2.2.1 Permutation Groups 置換群
 ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736 – 1813)は、5次以上の方程式がベキ根によっては解けないことについても研究し、根の置換など群論の先駆けとなるような研究も行っている。数学史における群論的な思考を暗示する初めての事例だった。
基礎的な概念的な進歩を達成し、多くの人から(置換)群論の創始者とみなされているのはガロア(Évariste Galois, 1811 – 1832)だった。彼は正規部分群の基本的な概念を創り、それを用いて大きな成果をあげた。

 ガロアは二十歳で死んだ。復古王政(1814年ナポレオン没落後、1830年の7月革命まで)の時代にあって、若き数学者の死は革命への参加とも決闘とも言われたが、その名をガロア群として数学の世界に名を残す。

長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第12回(p21-22)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第12回2.1.4-Analysis20190510勉強会-.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/12p21-222-History-of-Group-Theory-2-1-4-Analysis-edupa7

2 History of Group Theory
2.1.4 Analysis 解析

解析関数というのは、多変数関数で微分可能なもの、実関数は微分可能というのだが、一般に複素変数の関数では微分可能と言わないで解析的という。解析的とは、微分可能よりもう少し条件が厳しくて複素平面というかこの場合はn次元上の全てのところでべき級数に展開される、そういうような条件を満たすもの。

リー(Marius Sophus Lie, 1842ー1899)は、自らをアベル(Niels Henrik Abel:1802−1829享年27歳)、ガロア(Evariste Galois:1811−1832享年20歳)の後継者と考えていて、連続変換群を定義する。

リーの研究は、ピカール(Charles Émile Picard、1856ー1941)とビジョー(Ernest Vessiot 1865 ー1952)によるリー論のその後の公式化を基礎付けるものだった。

ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré 1854ー1912)とクライン(Felix Christian Klein, 1849ー1925)は、1876年頃に「保型関数」とそれらに結びついた群で研究を始めた。

19世紀初めに若くしてなくなった二人の数学者アベルとガロアの研究は、19世紀後半には多くの後継者たちによって、群論として体系化された。

長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第11回(p20-21)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第11回2.1.3-Geometry20190503勉強会-.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/11A-History-of-Abstract-Algebra-by-I-Kleiner-p20-21-edkiil

2 History of Group Theory
2.1.3 Geometry

19世紀の数学の大発見と言えるのが、collineation共線性の発見である。3点が同一直線上にあるという条件で、点A,B,Cがある時、ベクトルAB、ベクトルACに対して、片方はもう片方の実数倍で表される。3本の直線が1点を共有するとき共点という。3点が同一直線上にあることとき共線という。共点と共線は双対(そうつい)といって、射影幾何では同じこと。

クラインは明確に群という考えを出した。クラインのエルランゲンプログラムへ導いたいくつかの背景について、ここで述べている。


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第10回(p19-20)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第10回2.1.2-Number-Theory20190501勉強会.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/10A-History-of-Abstract-Algebra-by-I-Kleiner-p19-20-edjaud

2 History of Group Theory
2.1.2 Number Theory 数論

ガウスのDisquisitiones Arithmeticae(数論講義)は、数学者たちを19世紀の丸々100年を支配した。

ガウス記号を知っているよね、と言われても学習した記憶がない。プログラムのintみたいだが、負の数になると違ってくる。集合の概念がつかめなければ、18世紀以前の数学から脱皮できない。
素数5の因数分解は、(2+i)(2-i)となるなんて、なるほど・・・i(アイ)は変身(変心)するものだ。

いよいよ群の登場。4つのパターン。
 mを法とする(mod.m)整数加法群
5mod.7=5、5^2mod.7=4、5^3mod.7=6、5^4mod.7=2、5^5mod.7=3、5^6mod.7=1、5^7mod.7=5、〜ー>7乗で戻る!

Φ関数とはどういう関数か?互いに素な自然数の個数のこと。12 と互いに素な 12 以下の自然数の個数は,12=2^2⋅3 より,12(1−1/2)(1−1/3)=4 個。素因数分解がカギ、この公式を覚えるだけじゃダメ、証明できなくちゃ・・・

Z*p(ゼットピースター)の任意の要素が与えられた時、要素のorder(次数/位数)がp − 1の約数であることを示した。ここがキモ! 例えばpを素数7として整数4の場合を考える。4mod.7=4、4^2mod.7=2、4^3mod.7=1、4^4mod.7=4、4^5mod.7=2、4^6mod.7=1。だから p -1=6の約数3を位数とする要素も単位元となる! 

1のn乗根が巡回群をなしているということが、複素数を勉強して一番嬉しい話である。フェルマーの定理:x2 + y2は4で割ると必ず1余る。これは、ガウスの2次形式論と言って、とてもエレガントな理論である。証明も簡単であると。(私はやっていないが)


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第9回(p17-19)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第9回2.1.1-Classical-Algebra20190424勉強会.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/9A-History-of-Abstract-Algebra-by-I-Kleiner-p17-19-edib2p

2 History of Group Theory

群論の入門編で議論された主な概念の起源、定理、および一般的な理論について概説する。群論の進化に関する「物語ストーリー」は1770年に始まり、20世紀に拡大したが、主要な発展は19世紀に起こった。その世紀の一般的な数学的特徴の一つに、人間の活動としての数学の見方、つまり物理的状況を参照せず、または物理的状況からの動機なしで可能になったこと。これは革命と呼んでもいい。

2.1 Sources of group theory 群論の4つの源
(a) 古典代数(ラグランジュ、1770)
(b) 数論Number theory (Gauss, 1801)
(c) 幾何Geometry (クラインKlein, 1874)
(d) 解析Analysis (Lie, 1874; ポワンカレPoincaré and Klein, 1876)

2.1.1 Classical Algebra古典代数
ラグランジュが1770年「代数方程式の解に関する省察」を書いた当時の代数学の主な問題は、多項式に関するものだった。 そこには根の存在と本質を扱う“理論的な”問題がありました。

方程式の根たちの置換の研究は。代数方程式におけるラグランジュ一般理論の礎となった。この置換の研究は、彼が頭の中で考え、“方程式の解の真の原理”を形成した。たとえば、f(x)が根x1、x2、x3、x4を持つ4次方程式であるならば、R(x1、x2、x3、x4)はx1x2 + x3x4と取ることができ、この関数はx1、x2、x3、x4の24個の置換のもとで異なる値は3個しかとらない。


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第8回(p13-14)

レポート
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音声
https://anchor.fm/tecum/episodes/8A-History-of-Abstract-Algebra-by-I-Kleiner-p13-14-edgs99

1 History of Classical Algebra
1.8 Symbolical algebra 記号代数学

負の数と複素数、18世紀(FTAはそれらを不可避にした)において頻繁に使われるけれども、ほとんど理解されなかった。例えば、ニュートンは負の数を、「無より小さい」量と説明し、ライプニッツは、複素数を“存在と不存在の間の両生類”であると言った。オイラーは“ +の記号がついていたら正の量、−の記号がついていたら負の量、と呼ぶ”と主張した。

(−1)(−1)= 1のような負の数の取り扱い規則は、古代から知られていた。けれども過去にはいかなる証明も与えらなかった。18世紀の後半と19世紀始めの間に、数学者たちは、なぜそのような規則が成り立つのかということに疑問を持ち始めた。

この話題についての最も包括的な仕事は、1830年のピーコック(解析協会のリーダー)のTreatise of Algebra(代数学論)であった。ピーコックのthe Principle of Permanence of Equivalent Forms(等値形式の恒久普遍原理)は、本質的に記号代数学の法則が算術的代数学の法則になると言っている。

次の数十年に、イギリス数学者たちが、ピーコックが予言したことを、通常の算術の法則とは何通りもの仕方で異なっている性質を持った代数(多元環)を導入することによって、実際に具体化した。


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第7回(p10-12)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第7回1.7-The-theory-of-equations-and-the-Fundamental-Theorem-of-Algebra20190402勉強会.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/7A-History-of-Abstract-Algebra-by-I-Kleiner-p10-12-edgqc5

1 History of Classical Algebra
1.7 The theory of equations and the Fundamental Theorem of Algebra
方程式の理論と代数学の基本定理FTA

FTAとは、「次数が 1 以上の任意の複素係数一変数多項式には複素根が存在する」 という定理である。17世紀前半にジラールらによって主張された。

ビエタとデカルトの研究は、16世紀の終わりから17世紀の始めころ、数値方程式の可解性から文字係数を持つ方程式の理論的な研究へと関心の的が移った。多項式の理論が出現し始めた。その主たる関心は、そのような文字係数を持つ方程式の根の存在、本質、そして個数決定することだった。

 FTAの最初の証明は、1746年にダランベールから与えられたが、すぐオイラーによる証明が続いた。ダランベールの証明は解析学からアイデアを用いていたが、オイラーはほとんど代数学的であった。二つの証明は両方とも、特に、すべてのn次方程式が、実数の法則に従って計算することができるn個の根を持つということを仮定している点で、不完全であり厳密さに欠けていた。

ガウスは、1797年(彼がほんの20歳であった時)に完成し、1799年に出版した博士論文の中で、当時の標準では十分厳密なFTAの証明を与えた。

 19世紀の始め、FTAは相対的に新しいタイプの定理、existence theorem(存在定理) になった。すなわち、ある数学的な対象-多項式の根-は、単に理論上だけで、存在することが示された。20世紀になると計算できるかどうかは別、存在することが証明されればいいと変わった。これは数学の歴史において大革命と言える。


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第6回(p8-10)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第6回1.6-Algebraic-notation-Viète-and-Descartes20190328勉強会.pdf

音声 https://anchor.fm/tecum/episodes/A-History-of-Abstract-Algebra-by-I-Kleiner-p8-10-ed8vih

1 History of Classical Algebra
1.6 Algebraic notation: Viète and Descartes 代数的記号法 ビエタとデカルト

3千年もの間、記号なしに代数学が発展してきた。代数学に対しての記号表記の導入と完成は、16世紀と17世紀初めに主にビエタとデカルトによってなされた。

ビエタの基本的なアイデアは、任意の係数(定数)を方程式に導入し、そしてこれらを方程式の未知数(変数)と区別することであった。彼は子音(B, C, D, . . .) を定数とし、母音(A, E, I, . . .)を変数とした。これは有名な話です。

シナゴゲとアナリキケって知ってる?ギリシャ語で、(さすが数学の祖だ)、
「method of synthesis」は、シナゴゲに相当するもので、総合の方法というもので、「method of analysis」は、分析の方法。シナゴゲというのは、答えがあるとすれば、こうでなくてはならない、という理論をいう。それに対して答えがまさにそうであるということを分析的に論ずることを、解析と言う。

解析は総合に比べて、一段低い位置にあった訳ですが、近世に実はその解析にこそ命があると、解析と総合の地位の逆転が起こるわけです。これが数学史の歴史の中で最も重要な事です。

ビエタの欠点
(ⅰ) 彼の表記法は、「短縮」だった。
(ⅱ) ビエタは、代数表記において、全ての項は同一次数を持たなければならないと“同次性”を要求した。
(ⅲ) 代数的解は幾何学的証明であった。ビエタといえども例外ではなかった。
(ⅳ) ビエタは方程式の根を正の実数に限定した。

2千年の間、幾何学は、数学の言語となるべく大きい位置を持っっていたけれど、今や代数学が数学の言語としての役割を果たし始めた。


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第5回(p7-8)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第5回1.5-The-cubic-and-complex-numbers20190326勉強会.pdf

1 History of Classical Algebra
1.5 The cubic and complex numbers 3次方程式と複素数

負の数の平方根の存在が初めて認められたのは16世紀になってからだ。
3次方程式のベキ根による解法を通じて、全てが変わった。カルダーノは負の数を信じないので、彼の公式をx^3 = 9x+2のような方程式には応用できないとカルダーノはみなした。しかしこれらすべてはBombelliボンベリによって変えられた。ボンベリは複素数のための微積分学を発展させた。

1572年ボンベリは、虚数を定義した。(+ √−1)(+ √−1)= −1および(+ √−1)(− √−1)= 1、そして特定の複素数の加法と乗法を定義した。これが複素数の誕生だった。

1831年ガウスによって虚数という言葉が定着した。複素数平面をガウス平面という。ちなみに高校までは複素数平面というが、大学に入ると複素平面という。この言い方の違いがわからない。


長岡亮介数学勉強会「A History of Abstract Algebra by I.Kleiner」 第4回(p5-7)

レポート https://akasakas.cool/wp-content/uploads/2020/05/第4回1.4-Cubic-and-quartic-equations20190326勉強会.pdf

1 History of Classical Algebra
1.4 Cubic and quartic equations 3次、4次の方程式

カルダーノは1545年に著した本『偉大なる術(アルス・マグナ)』(ラテン語: Ars magna de Rebus Algebraicis) のなかで3次方程式の根の公式、4次方程式の解法を示した。

BC16世紀までに2次方程式を解していたのに、3次方程式が解けたのはそれから3,000年も費やしたのだ。x3乗 = ax + bという3次方程式の解は、カルダーノの公式(タルタリアによって発見されていたものだが)として呼ばれるものだ。
(i) カルダーノは記号を全然使わなかった。
(ii) 彼は、通常、3次方程式の一つの根を見つけることでいつも満足した。
(iii) 負の数は時々発見されるけれども、それらを“fictitious”(虚数)と呼んで、疑った。
(iv) 3次方程式の解法手順に幾何学根拠を与えた。

21歳年上のカルダーノの召使いとして働いていたフェラーリは、4次方程式の多項式のベキ根による解法を発見した。

16世紀イタリアに3人の数学者が生きていた。フェラーリは1565年に43歳で毒殺され、カルダーノは1576年に75歳で自殺した。もう一人はボンベリである。